外交史ストーリー
日本の対外関係を流れで読む
- 古代①:中国に「認めてもらう」(弥生・古墳)
- 古代②:中国へ「学びに行く」(飛鳥・奈良・平安)
- 中世:貿易で結ぶ、そして元寇(平安末・鎌倉・室町)
- 近世①:ヨーロッパが来た(室町・戦国)
- 近世②:秀吉の朝鮮出兵と、鎖国へ(戦国・江戸)
- 近代:開国し、対等をめざす(江戸末・明治)
日本の外交は、中国という圧倒的な大国に「自分を認めてもらう」ことから始まります。まだ「日本」という統一国家はなく、各地に小さなクニ(国)がありました。そうしたクニの王にとって、当時世界最先端だった中国の皇帝から「お前を王と認める」というお墨付きをもらうことは、国内でのライバルに対して大きな権威になったのです。
弥生 57年、九州北部にあった奴国の王が後漢に使いを送り、皇帝から金印を授かりました。江戸時代に志賀島(福岡)で見つかった「漢委奴国王」と刻まれた金印が、これにあたるとされます。金印は「認めてもらった証拠」そのものでした。
次に有名なのが弥生 239年、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送った話です。卑弥呼は「親魏倭王」(魏に親しむ倭の王)の称号と金印を授かりました。奴国と同じ構図です。国内をまとめるために、外の大国の権威を借りたのです。
古墳 5世紀には倭の五王が、こんどは中国の南朝に使いを送ります。目的は、倭の王としての地位に加えて朝鮮半島南部の軍事的な支配権を認めてもらうこと。日本の関心が、国内の権威づけから、朝鮮半島をめぐる国際的な立場へと広がっていったことがわかります。
国内の統一が進み、大和政権が力をつけてくると、外交の目的が変わります。もう「認めてもらう」だけではなく、中国の進んだ制度や文化を取り入れて、自分たちの国を強くしたいと考えるようになったのです。
飛鳥 607年、聖徳太子(厩戸王)は遣隋使として小野妹子らを隋に派遣します。有名な「日出づる処の天子…」の国書は、中国と対等であろうとする姿勢の表れとされます。ここで注目したいのは、これまでの「認めてもらう」姿勢から、「学びに行きつつ、へりくだりすぎない」姿勢への変化です。
隋が滅んで唐になると、奈良の都(平城京)を中心に遣唐使が繰り返し送られ、留学生や僧が最新の知識を持ち帰りました。平城京が唐の長安をまねて作られたのも、この学びの成果です。
ただし、大陸への関与は危険もともないました。飛鳥 663年の白村江の戦いでは、日本は滅びかけた同盟国・百済を助けようと朝鮮半島に大軍を送りますが、唐・新羅の連合軍に大敗します。これをきっかけに、日本は朝鮮半島への直接介入から手を引き、国内の防衛と体制固めに向かいました。
そして平安 894年、菅原道真が遣唐使の停止を訴え、認められます。理由は唐が衰えてきたことと、往復の航海があまりに危険だったこと。学ぶべき相手としての魅力が薄れ、リスクだけが残ったのです。これ以降、大陸の文化をそのまま輸入するのではなく、日本の風土に合わせて作りかえる国風文化が花開きます。
遣唐使をやめた日本は、しばらく公式な国交には消極的でした。しかし民間の貿易は続いており、やがて貿易そのものに大きな利益があると気づいた実力者が現れます。
平安末 12世紀、平安時代末期に権力を握った平清盛は、兵庫(現在の神戸)の港を整備して日宋貿易を行いました。中国の宋から輸入した大量の宋銭(銅銭)は、日本の経済に貨幣を広めるほどの影響を与えます。外交が「権威づけ」から「経済的な利益」へと目的を変えた、大きな転換点です。
ところが鎌倉時代、日本は久しぶりに「攻められる側」を経験します。1274年・1281年の元寇(文永の役・弘安の役)です。中国を支配したモンゴル帝国(元)の皇帝フビライ・ハンが、高麗(朝鮮)を従えて2度にわたり北九州へ攻めてきました。執権北条時宗のもとで御家人たちが必死に防ぎ、暴風雨にも助けられて撃退します。この防衛戦は御家人に大きな負担を強い、鎌倉幕府が弱っていく一因になりました。
室町時代になると、貿易外交が復活します。1404年、3代将軍足利義満が明との間で日明貿易(勘合貿易)を始めました。これは明の皇帝に対して臣下の礼をとる朝貢の形をとる貿易で、正式な貿易船と倭寇(海賊)を区別するために勘合という証明書を使ったのが特徴です。
16世紀、大航海時代のヨーロッパ人が、はるばるアジアまでやってきます。日本の外交史にまったく新しい相手が加わる瞬間です。
室町・戦国 1543年、ポルトガル人を乗せた船が種子島に漂着し、鉄砲を伝えました。鉄砲はたちまち各地の戦国大名に広まり、戦い方や城の作りを変えるほどの影響を与えます。
続いて室町・戦国 1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが来日し、キリスト教を伝えました。以後、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易が本格化します。鉄砲・火薬・ガラス製品・時計といった珍しい品々がもたらされました。
キリスト教は西日本を中心に広まり、キリシタン大名も現れました。戦国 1582年には、大友宗麟らキリシタン大名が、少年たちをローマ教皇のもとへ送る天正遣欧少年使節を派遣しています。日本人が初めてヨーロッパの中心まで行った、象徴的な出来事です。
全国を統一した豊臣秀吉は、大きな野望を抱きました。明(中国)の征服です。その通り道として、まず朝鮮に協力を求め、断られると戦国 1592年・1597年の2度にわたって朝鮮に出兵しました(文禄・慶長の役)。この戦いは秀吉の死で終わりますが、朝鮮に大きな被害を与え、日本と朝鮮の関係を深く傷つけました。
次の江戸時代、徳川家康は朝鮮との国交を回復します。以後、将軍の代がわりごとに朝鮮通信使が日本を訪れるようになりました。数百人規模の使節団の来日は、江戸時代を通じた平和的な外交の象徴でした。
家康は貿易にも積極的で、江戸初期には海外へ渡る商船に許可証(朱印状)を与える朱印船貿易を進めました。東南アジア各地に日本町ができるほど、日本人は海を越えて活躍しました。
ところが幕府は、しだいに海外との関わりを制限していきます。理由はキリスト教の広まりへの警戒と、貿易の利益を幕府が独占したいという思惑でした。スペイン船、日本人の海外渡航・帰国と次々に禁じ、島原・天草一揆を経て、江戸 1639年にはポルトガル船の来航を禁止します。最後にオランダ商館を長崎の出島に移し、いわゆる鎖国が完成しました。
鎖国の体制は長く続きますが、19世紀に入ると外国船が日本近海に現れるようになります。江戸 1825年、幕府は近づく外国船を追い払う異国船打払令を出しました。閉じた体制を守ろうとする、最後の抵抗でした。
江戸末 1853年、アメリカのペリーが軍艦(黒船)を率いて来航し、開国を迫ります。幕府は翌1854年に日米和親条約を結び、ついに開国しました。200年以上続いた鎖国の終わりです。しかし続いて結ばれた通商条約は、日本にとって不利な不平等条約でした。
明治政府にとって、この不平等条約をなくすことが最大の外交課題になります。明治 1871年、政府は岩倉使節団を欧米へ派遣しました。条約改正の予備交渉と、近代国家のしくみを実際に見て学ぶことが目的でした。
同じ明治 1871年、日本は清との間に日清修好条規を結びます。これは対等な内容の条約でした。かつて「認めてもらう」相手だった中国と、対等な立場で条約を結ぶまでになったのです。
周辺の国境や領土も定められていきます。明治 1875年、ロシアとの間で樺太・千島交換条約を結び、国境をはっきりさせました。
一方で、日本自身が他国に不平等条約を押しつける側にもなります。明治 1875年の江華島事件を口実に、翌1876年、日本は日朝修好条規を結び、力で朝鮮を開国させました。かつてペリーに開国させられた日本が、こんどは朝鮮に同じことをしたのです。
明治 1879年には琉球処分を行い、琉球藩を廃止して沖縄県を設置しました。近代国家として、領土と国境を確定させていく動きの一つです。
全体を貫く一本の流れ
- 古代前半:中国に認めてもらう(奴国・卑弥呼・倭の五王)
- 古代後半:中国へ学びに行く(遣隋使・遣唐使)→ 白村江の敗戦と遣唐使停止で大陸から距離を置く
- 中世:貿易で結ぶ(日宋・日明)/例外として元寇に攻められる
- 近世:ヨーロッパが来る(鉄砲・キリスト教)→ 警戒して閉じる(鎖国)
- 近代:黒船で開かれ、不平等をのまされ、やがて対等をめざし、自らも他国に迫る側へ

コメント